林廣院について

由緒




○現住職
  三十世 梅澤 元禅(うめざわ げんぜん)

○概要
 林廣院は山号を陽澤山と称し、曹洞宗の禅院であり郡上の南端美並町白山808-1番地に位置し、岐阜から国道156号線を北上すること30キロメイトルの地点・因みに、現在東海北陸自動車道美並インタ-を降りて信号左折800メ-トル美並苅安駅付近にある。

 福野にある河合城と長良川を差し挟む対岸の高原城「別名吹見城」と相対するのが跡鶴尾城「林廣院城」で、その山麓に嘉吉元年(1441)に梅庭洞察禅師によって開創されたのが、曹洞宗の林廣院護国禅院であります。

○白山信仰と熊野信仰の合流点
 郡上を通り、加賀白山に泰澄大師(養老元年717)が登山し、神のお告げを享けて開いた白山信仰と和歌山県紀州の熊野権現を祠る熊野信仰の合流点に位置し、古くから山岳信仰の拠点であります。
 特に白山信仰は、北濃の長滝神社起点として、那比の本宮、新宮、星ノ宮神社経て美濃市洲原神社(里宮)は、愛知県の信者が多く、この美並町を通って白山に参詣するという点で、星ノ宮神社や、那比の本宮には仏師が常駐して、参詣人の財力によって懸仏を寄進されたものが数多く、この三社には現在重要文化財として残っております。

○魔物退治伝説
 かかる信仰基盤地帯にあって、星ノ宮神社、那比の本宮、新宮等は高賀山信仰「本尊虚空蔵菩薩 (瓢岳)に伝説せられる粥川の鬼退治の縁起伝説に伴うものがあり、この粥川縁起に時の朝廷より來山した藤原高房卿を首班とする、二回にわたる妖鬼退治に星ノ宮神社の本尊虚蔵菩薩の御導きにより無事妖鬼退治は成功し、其の后藤原高房卿の子孫二十代位後の子孫に藤原光広が、高原城の城主となっていたが、出家隠退して、苅安の山際に光林庵(創建は光広の先祖上野佐光林入道だといわれる)光林庵に居住しておりました。

 時に越中新川郡布目村 大安寺(現在の最勝寺 / 富山県蜷川377番地)第九世 梅庭洞察禅師が当庵に若干滞在し、禅師の高徳に深く帰依した。 その後、(天文21年1552)鶴尾山に城を築いた遠藤盛数が、永録二年(1559)に東氏を滅して、八幡城を築いて移ると下田城主、稲葉備中守通則の家臣、那和和泉紙が鶴尾山城の城主となり、永録十二年同城で没した。その後を受けたのは盛数の家臣、粥川甚右ヱ門であった。甚右ヱ門は、元亀元年(1570)に盛数が信長に従って従軍した「勝田の戦いに破れ、京都大徳寺へ敗走しているところを救出して、郡上へ迎え入れるなどの功績によって同城を與えられたのである。 甚右ヱ門は元亀2年6月11日に城地で没すると、盛数は、自分の窮地を救った恩義に報いるため鶴尾山城一帯の山林を甚右ヱ門の菩提を弔うための土地と定め寺院を建立させた。これが林廣院一帯の山林寄付である。

 鶴尾山城の地を寺院にするに当たり、苅安山際にあった光林庵の名称から、林の一字をとり、光廣入道の廣をとって合わせて、林廣院と称した。こうして鶴尾山城は城から寺院へと移行して城の性格を失うようになり、諸寺院が何々寺と「寺」を用いているのに林廣院は「寺」の寺を持たないところが諸寺院と異なり成立の由緒を秘めていると思われる。 依って林廣院の開基を粥川甚右ヱ門親光、戒名(虚岩林太居士)としたのであります。

 尚、当院歴住墓地には開山 梅庭洞察大和尚と共に虚岩林太居士の一族の六角の石塔が現存している。こうした記録から林廣院は粥川氏の菩提寺として建立された為、粥川氏の祖として藤原高房伝説と結びついた由緒で語られるのである。
粥川甚右ヱ門の子孫は代々甚右ヱ門を世襲し、遠藤家の家臣である。盛数の子、慶隆(千代の兄)が天正6年(1588)秀吉に反抗したことから、郡上を追われと甚右ヱ門も従い、加茂郡小原へ移ることになった。

○見性院が育ったという言い伝え
 ところで、NHK大河ドラマ『巧名が辻』山内一豊の妻、見性院は初代郡上八幡城主 遠藤盛数の娘として生まれ、千代歳のころ、盛数は病死、母の再婚、義父の敗北、流浪。波乱の時が始まります。言い伝えによれば、千代が(1559年生まれ)三歳まで、林廣院にて育ったことが言い伝えられております。「1617年京都にて千代死去」 慶隆、転封の後を追って稲葉時代になると粥川氏の菩提寺がある鶴尾山城も、その支配下となり、稲葉氏の家臣である。那和氏の菩提寺が再び居住するところとなった。
天正19年卯10月3日、陽澤山林峰月光居士、那和泉守の記録が生まれるのであり、同時に那和氏の位牌もあり、石塔も現存する。山号の陽澤山というのも、これからである。

○開山 梅庭洞察禅師について
 その他、林廣院の末寺については、小那比-円通寺、大原-桂昌寺、梅原-薬師堂、深戸-阿弥陀庵、三日市-慈照寺、福野-観音庵、高砂-清涼庵、赤池-長養庵、粥川-浄蓮庵-是心安-無得庵等を有し、町の有力寺院であり信仰的にも大きな基盤を有しています。
尚、当山、開山 梅庭洞察禅師について、師諱は洞察・字梅庭、誕生地祥かにせず、夙に越前州、宅良県 慈眼寺開山・天真慧性和尚を師として篤く厳風を慕う。
 懃持して怠らず。素性、質〇行業至精なり、一日衆に随って中庭を清掃するの因、怱紅梅を見て開悟す。乃を一朶の紅梅華、没巴鼻を蜀は觸破するの句あり、親しく天真の受記を得、密に衣法を伝う境に出て、山を濃の林廣に開いて居す。すなわち一庭を方丈の傍らに設けて、手づから紅梅の樹うえ、禅余必ず以て遊燕の地となす凡て、その人あり来りて禅を問う、ただ梅華を指して失笑するのみ、世人之を推尊して梅庭禅師と称すの伝説あり。

 因みに近来有名になって来た円空彫りの円空上人も、この白山信仰の道を巡って白山へ登山している途中、神社及び仏閣には禅家と天台、真言等の寺院のみしか立ち寄っていないのも、何か信仰的な点に於いて一如するところが存在するのではないかと思います。

○福徳天神生成社を建立
 梅庭禅師遺徳として盛数が寄進した鶴尾山城は周囲2キロメ-トル余りの独立した小山であるが、山頂付近の谷から水が湧き出ており、どんな日照りつづきでも断水したことがないと言われが、開山禅師も、この件については必ず断水しないとの言い伝えがあり、今日も尚、若干水は細くなったが、依然として断水した事はない。この事は開山の遺徳と共にこの山が単なる山ではないことを証明するものと思います。
平成3年鶴尾山裏に東海北陸自動車と美並インタ-出来 鶴尾山神の御神体として、戸隠の神官を招き護摩供養し、山神との約束で、福徳天神生成社を建立し、毎年五月第二日曜・秋九月第二日曜日に盛大に大祭を執り行っている。
 さらに、福徳天神生成建立と共に、近隣を整備し桜を植樹し、近辺には山ツツジが咲く眺望豊かな山腹にあり、平成一九年に郡上活性化協議会・八幡信用金庫等の計らいで、植樹祭が執り行われ数年後がたのしみである。平成21年4月には、林廣院実行委員会主催で、第一回『サクラとツツジ祭り』が盛大にとりおこなっております。

○郡上新四国八十八ヶ所
 また、当地は霊場信仰として、郡上新四国八十八ヶ所が大正12年(1922)11月、小酒井仲造・山田秀二郎等によって、郡上新四国八十八ヶ所創立が発起され同15年12月に完成した。 八十八ヶ所は当町・八幡町・美濃市にわたり設けられ、各本尊が祭られている。当山鶴尾山城の旧本丸に薬師如来・馬場に85番聖観音像の谷汲山を奉安し、爾来今日に至るまで、毎春4月21日には、弘法様の日と決めて40名から50名の弘法講員の信者によって御詠歌を唱え、区長の指導によってお供えの団子、その他の供物を供えて町内を巡り各霊場に御詠歌、読経を唱へて供養を行って来ております。
 又、本丸付近には戦国以来の戦火による戦死者等あり、当院に於いてその供養塔として、一石五輪塔を建立して、これは供養として奉詞しております。

平成21年3月31日